■ JBL OLYMPUS S8R ■

イタリア系アメリカ人のジェイムズ・バロウ・ランシングはその昔はジェイムズ・マーティーニと 言い、14人兄弟の9番目で、バロウ家に預けられて育ちました。12歳の時に小型無線機を作って海軍 無線局に電波妨害で捕まったという逸話が残るくらいの機械オタクで、その後自動車修理工を経て、 放送局のエンジニアとなります。1927 年その時の経験を活かしてロスにランシング・マニュファク チュアリング社を設立。ラジオ受信機用のスピーカー設計製造を始めます。1934年にWEのシステム に対抗して、15インチウーファー2基とホーンドライバーによる劇場用2ウェイシステムを開発。 「シャラーホーン・システム」が映画芸術科学アカデミー賞を受賞しました。

ところが共同経営者のケン・デッカーが飛行機事故で死亡。経営が破綻し、1941年12月、アルテ ック・サービス・コーポレーションに合併され、アルテック・ランシング・コーポレーションの技 術担当副社長となります。この時、WE社はアルテック・ランシング社にその製品製造ラインセンス契約 を行い、OEM供給なども行うようになります。1946年に辞めるまで、アルテックの重要な製品である 604スタジオモニター・シリーズやボイス・オブ・シアターのA4などの設計開発を行っています。

1946年J・B・ランシング・サウンド社設立。D101、D130、175ドライバーなどの開発 を行いますが、1949年9月24日、アボガドの木で首吊り自殺してしまいます。
その後、ウィリアム・H・トーマスが社長を引き継ぎ、1955年JBLがブランド名となります。
1954年「ハーツフィールド」が工業デザイナー、ロバート・ハーツフィールドのもとで開発。翌 1955年、ライフ誌が「究極の夢のスピーカー」として取り上げられます。
1957年パラゴン発売。工業デザインはアーノルド・ウォルフ。音響学的には陸軍通信大佐リチャード ・レンジャー・パラゴンが担当。そのため、パラゴンは「レンジャー・パラゴン」とも呼ばれました。 同製品は31年間に渡って製造、販売されています。

パラゴン、ハーツフィールドとともに、Old JBLの銘機とうたわれている、OLYMPUS。
1962年に「D50SM/S8」スタジオモニターを開発。当初はLE15A,375,075+HL93の組み合わせでした。その後、S8Rとなり、 ツィーター 075、ドライバー 375、ウーハー LE15A、パッシブラジエター PR15という組み合わせになります。
一体型のパラゴンとは異なり、格子模様の美しさもさることながら、LRのスピーカー・エンクロージャーのセッティングの自由度があり、 低域はパラゴンよりさらに出るパッシブラジエター採用。メインのLE15Aとの組み合わせで、LE15単体に較べて、理論上1.41倍口径 相当の低域再生能があるというのは魅力的です。もっとも、エンクロージャーの容量との兼ね合いで、なかなかそこまでは行きませんが、 やはり低域の再生能力があるというのは、重要に思えます。

その後、1971年プロ用として4320発売開始。1976年4343スタジオモニター発売。1989年Project K2 S9500が 発売され、今日に至っています。




正面像です。格子模様のフロントグリルがとても綺麗です。
今どき、こんな手の混んだ物を作れるメーカーは無いでしょう。


フロントグリルを取ったところです。


Last update Jul.29.2005