■ 古代出雲の歴史 ■


 古代出雲の歴史と神話と言うと、みなさんは何を思い浮かべるで しょうか?
 たいていの方々は、歴史的バックボーンになっている資料として 古事記を挙げ、「スサノオ」「大国主」らが中心となった出雲神話 を思い浮かべることでしょう。

 これはこれで、確かに間違いではないのですが、記紀と言われる、 「古事記」や「日本書紀」は、出雲を武力で平定した大和朝廷側か ら書かれた歴史で、その一側面でしかありません。
 そして出雲などと言うと、関東地方に住む方々からは遠い存在の ように思われますが、実は関東に住む私どもの身近に、出雲族の残 影を見ることが出来ます。

 氷川神社、熊野神社、諏訪神社……。
 祭神が天照大神となっているところもあるものの、本殿ではない 摂社、末社の祭神を調べてみると、大国主神(尊もしくは命とも表記) や須佐之男(スサノオ)尊の名前を見ることが出来ます。

 これはとりもなおさず、これらの神社が出雲系の人々によって建 てられたものであることを物語っています。
 もっとも時代を経て、その神社の存続を問われたとき、やむなく 主神を大和系の神々にして長らえた神社も多々あり、それまでの出 雲系の祭神は、本殿から追われて小さな社に名を残すのみとなって 行ったのは、時代の流れとはいえ、残念なことです。

 アニメ「セーラームーン」でもおなじみになった火川神社ならぬ、 「氷川神社」。その総本山とも言うべき「氷川神社」は、大宮にあ ります。
 元々、大宮の呼称自体が、大きな宮社の存在を示すものであり、 この「氷川神社」だけでも関東には数百存在することを考えると、 出雲系の人々の勢力は、絶大なものがあったに違いありません。
 だいぶ遠回りしてしまったようです。
 そろそろ、本題の古代出雲の歴史について述べようと思います。

 古代出雲の歴史を語る際、忘れてはならないのが「出雲風土記」。
 しかしこれとて大和朝廷から出雲地方を託された出雲国造の編纂 であることを考えると、完全なる資料には成り得ないことも明らか。
 他に万葉集、古語拾遺、出雲国造神賀詞なども参考になりますが、 結局のところ、出雲系の神社などに伝わる古い伝承などをも取り込 み、遺跡などからの出土品なども考慮して、一つ一つ歴史的事実に 照らし合わせ、より可能性の高い展開を考えるしか手段がないとい うのが現状です。

 とは言うものの、出雲風土記は古代出雲の歴史を紐解く上で、無 くてはならない資料であることは間違い有りません。この出雲風土 記によると、意宇川以東を中心とする野城(野義:のぎ)大神、加 賀郡神埼を中心とする佐太大神、出雲の祖神クナトノ大神である熊 野大神が主神で、新羅系渡来人で神門川中流の飯石地区の一地方神 に過ぎなかったスサノオや、簸ノ川平野を開拓してそこへ移り住ん でその地の祖となったオオナムチ(オオクニヌシ:大国主)は、当 初は脇役でしかありませんでした。
 なぜなら出雲地方を最初に開拓したのはおそらく熊野(くなとの) 大神を祭る一族で、その後野義大神を祭る一族、佐太大神を祭る一 族が開拓していったと思われるからです。純粋に出雲族と呼ぶ時は 熊野大神を祖とする一族を示したと思われます。出雲風土記を編纂 した出雲国造はこの熊野大神を祖としていると考えられていますの で、出雲風土記におけるスサノオ一族の扱いが低いのも頷けます。

 このスサノオ一族ですが、歴史を辿っていくと、中央アジアを席 巻した騎馬民族に関係していることが解ってきました。

 バルハシ湖西岸から中央アジアへ紀元前600年頃進出した、スキ タイ・サカ族(ペルシャ・スキタイ族)の一部が、蒙古、満州、朝 鮮へとやって来ます。
 このサカ(坂)族、日本へ渡ってからはスカ(菅、あるいは須賀) 族、砂鉄に関係するスサ(須佐)族とも呼ばれるのですが、その首 領であるスサノオ(スサ族の王の意)は一族を連れて一世紀頃出雲 地方へ渡来。意宇(おう)川下流の東部出雲を開発していた先着の 人々とは争わぬよう、神門川中流の飯石郡須佐郷、現在の簸川郡佐 多町須佐つまり西部出雲の小盆地に居を構えました。ここは出雲西 部へ出る神門川に沿う神門道がほどなく平野部へ出る、日本海−杵 築大神の南の神門水海−吉備・安芸に通じる交通の要所でもあり す。
 彼ら渡来系族より先に西日本一帯にやって来て、最初に江南地方 から稲作やタタラを使った産鉄技術を伝えた、背や鼻の低い南海 系(大海人族、わだつみ族とも言われています)部族は、度々出雲 地方を脅かしてテナヅチ、アシナヅチの娘クシナダを要求しました が、スサノオにより撃退されます。
 有名な八俣大蛇(やまたのおろち)を成敗して草薙の剣を得る 言う伝説は、スサノオが彼ら八つの部族を討ち、当時としては最高 の鉄製武器製作技術を手に入れたことを意味しています。
 古事記を読むと、武勇誉れ高いスサノオですら、その「頭」達を 酒に酔わせなくては討ち取ることが出来なかったと言うことが、ハ ッキリと書かれています。それくらい、彼らは強かったと思われま す。加えて興味あるのは、スサノオがその尾を切り落とそうとした ところが、その刃が欠けてしまい、不思議に思って尾を裂いてみた ところ、素晴らしい太刀が出てきたというくだり。つまり、スサノ オの武器は、その「尾」、すなはち「頭」に付き従ってきた下っ端 の兵、あるいは「武器を作る人々」の所持する武具にすら劣ってい たのです。決してスサノオが圧倒的優勢ではなかったことを、はか らずも物語っていると言って良いでしょう。
 朝鮮から渡ってきたスサノオの部族は、それなりに製鉄技術を持 っていた可能性があると考えられますが、弥生末、銅剣が主体だっ た出雲地方のことを考えると、その頃までは鋳鉄が主体で、鍛鉄の 技術は持ち合わせていなかったのかも知れません。
 ちなみに草薙の名の由来ですが、沖縄では南海人系の古い言葉が 残っていて、アオダイショウのことを「オーナギ」あるいは「オー ナガ」と言うそうで、「ナギ」が「蛇」と関連した言葉で、現在で も「蛇頭」などという言葉が残っている様に、「蛇」は中国南部か ら台湾、沖縄、九州にかけて活動していた南海人系の大海人、ま、 要するに海賊ですね、それを表す言葉ではないかと考えられていま す。
「クサ」は「クソ」と同義で、今でも使われていますが、「非常に」 とか「猛烈に」(強い)などの意を表し、「とてつもなく強い南海 の海賊の剣」というところでしょうか。

 オロチ成敗の功によりスサノオはクシナダを手に入れ、斐伊川中 流域で合流する赤川に沿ってさかのぼり大原郡大東町のあたり、今 の須我神社のもう少し上った須賀の地に居(宮殿)を構えます。
 この須我神社は背後に須我山をひかえ、須我山は西南に流れる須 我川、北に流れる忌部川(野代川)、東北に流れる意宇川の分水嶺 となっています。しかも重要なことに、意宇川の西岸には熊野大社 があります。つまり須我山は出雲の水の源であり、聖なる地であっ たと思われます。この地に居を構えたということは、とりもなおさ ず、出雲を支配したということになると考えても良いと思われます。

 また、簸ノ川(氷川の語源とも言われています)を開拓して移り 住んだオオナムチ(大己貴神=大国主神)一族は当初は農耕などを 主とする集団のようで、スサノオからの扱われ方を考えると、彼ら が征服した先住民の生き残りかも知れません。あるいは渡来部族の 中の農耕を司る一族かも知れません。
 オオナムチ(オホナムチ)の「オオ」あるいは「オホ」は、「大」 を表し、「ナ」はアルタイ語系の「土地」を表す言葉で、「ムチ」 は「貴人」の意味で、日本書紀では大国主神は七つの名前を持って いるとあり、古事記では七つもしくは五つの名前を持っていると書 かれていることから、一人の名を現しているというより、出雲地方 の広い地域を領有した、優れた支配者達の総称ではないかとも言わ れています。
 いずれにせよオオナムチはその人望もあったのでしょう。スサノ オから禅譲の形で出雲を譲り受けたと思われます。
 このオオナムチの治世の時、出雲族は大和族(日向族)と国家を 二分する巨大勢力となったようで、大和からたびたび討伐隊がやっ て来ますが、なかなか果たせなかったのは、古事記でも周知の通り です。
 しかし、雷と刀剣の神である建御雷之男神(たけみかづちのをの かみ)と、鹿の神格化である天迦久神(あめのかくのかみ:鍛冶に 使うふいごが鹿皮で作られており、刀剣の製作者と関係があると言 われています)が大和から出雲の伊那佐の浜にやって来て大国主に 国譲りを迫ります。
 大国主はその子、八重言代主神(やえことしろぬしのかみ:政治 &宗教担当)が服従の意を示し、スサノオの系譜に連なる武門担当 であった建御名方神(たけみなのかたのかみ)が建御雷之男神に敗 れて諏訪湖の畔まで逃げて行った(そのため、諏訪神社の祭神とな っています。諏訪の呼び名自体が、須佐と関係していると考えられ ています)ため、自らは戦わずして、高さ48mにもおよぶ壮大な出 雲の社(宮殿)を建築してもらうことを条件に、国を譲ることにな るのです。
 「御柱祭」という、時として死者も出る、諏訪神社のお祭りがあ りますが、太い聖なる「柱」を男達が山から切り出してきて神社に 奉納するというのは、時代を経ても出雲大社と深いつながりがある ことを暗に示しており、興味あるところです。
 この当時は九州北部からこの北陸にかけて、日本海沿いの広い範 囲にわたって出雲の勢力が広がっていて、九州のタキリ姫、翡翠の 産地北陸にはヌナカワ姫がいたことを考えると、建御名方神が諏訪 に逃れたルートは北陸経由が最も有力であると考えられています。

 このスサノオの一族、その足跡を追っていくと、鬼伝説、巨人伝 説が多く、また、東北の山岳信仰など出てくる、背が高くて鼻も高 い「天狗」もこの類だと思われます。あの「なまはげ」にも天狗の 面影があると言われています。
 アニメ「もののけ姫」に出てきた「ダイダラボッチ」も、実はス サノオに通じる巨人伝説と関係があると言われています。
「ダイダラボッチ」が「タータラ坊」、「大タタラ坊」が転じて出 来たという説もあり、武蔵の国にダイダラボッチ伝説が多い理由と して、興味有る説です。

 四年ほど前になりますが、私が杉並在住の頃、バスに乗っていま したら、「代田橋」という地名があり、確かめたところ、やはりこ のあたりにダイダラボッチ伝説があったと言います。
 今ではその土地土地の伝承を語ってくれる古老も居らず、教育委 員会の資料や寺社に残る記録に頼らざるを得ないのが誠に残念でな りません。
 でも、こうして都会の中にも密やかに古代の歴史の残影が、まだ そこここに認められるのは、何とも嬉しいことです。

 もし、これをお読みになって、歴史に興味を覚えた方がいらっし ゃいましたら、ぜひお近くの神社に足をお運び下さい。歴史の教科 書には載っていない、真の古代の人々の息吹が感じられる歴史への 扉が開かれるに違いありません。
初出 1997.7.22.
Last update 2007.1.19

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