■ マグダラのマリアとユダの話 ■


 聖書の中に、私の心を掴んで離さない光景があります。
 過越祭を間近に控え、エルサレムの城門に近い近郊のベタニアのシモン 宅に泊まり、久しぶりにマルタ、マリア(ローマ法王グレゴリウス1世=大グレ ゴリウス 在位590〜604年 によると、マグダラのマリアと同一人物)達の歓 待を受けます。
 忙しく振る舞い、妹のマリアが手伝わないことに不平を言うマルタですが、 そんなことにはお構いなしに、マリアは高価な香油の瓶を台所の片隅から取 り出すと、小脇に抱えて腰掛けている師の前に跪きます。その足に額がつく ほど平伏して一礼し、そして香油を静かに注ぎます。
 最後の一滴が瓶口から離れ落ちると、マリアは瓶を傍らに置き、髪を手繰り 寄せ、再び屈んで師の足を自らの髪で拭います。それを見ていたユダが、 「売って貧しい人達に施した方が良いものを」と咎めると、イエスは、 「したいようにさせておきなさい。私の葬りの日のために、とっておいてくれた のだから」と答えます。
 人々が押し寄せて周囲は騒然としているにもかかわらず、他に弟子達もた くさん居たであろうに、イエスとマリア、そしてユダの3人の周りは、まるで静寂 に包まれているかの様です。この3人は、どんな喧噪の中に居ても、目を合 わせるだけで互いの考えや心の内を、分かり合うことが出来たのかも知れま せん。そしてそれが出来るマリアは、イエスに一番近かった、マグダラのマリ アをおいて他には無いように思います。
 こんなことを書くと、カトリックの方からお叱りを受けるかも知れませんが、マ リアはイエスと深い関係にあったのではないでしょうか。単に師弟関係という のはあまりにも生々しい行為に思えてならないのです。
 死を覚悟した師であり夫であるイエスに、自らの体の一部でもって、清める 行為をする。あからさまな性的表現よりも、かえってエロティックな感じがしま す。長い髪が女性の象徴として描かれているのだとしたら、マグダラのマリア がイエスの子を身籠もった(という説がある)のはこの時であると、暗に聖書は 語っているのかも知れません。

 マグダラのマリアの最初の登場シーンは、非常に印象的です。
 人々がある女性を連れて来て、イエスに言います。
「この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モ ーセは律法の中で命じています」
 するとイエスはそれに答えて言います。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさ い。」
 マグダラ(Magdala)とはパレスチナ北部にある町の名で、マリアが生まれた 地とされています。
マルコによる福音書第16章9節によると、神殿娼婦のマグダラのマリアから、 イエスが7つの悪霊を追い出し、復活後、まずこの女のところに姿を現した、 ということになっています。長いこと彼女は「娼婦」であると解釈されてきまし たが、それが誤りであることをヴァチカンは1969年に認めています。 また、 聖書では、しばしば聖母と娼婦が混同されている、と指摘されています。
 聖なる神殿に娼婦が居たり、聖母と娼婦が混同される、というのは私の理 解を遙かに超えてしまっているのですが、「地上世界の良きもの悪しきもの、 全てを包み込み、破壊とともに新たなる生命を育む」という、ヒンズー教以前 の、古代インド大地母神崇拝儀礼に通じるものがあるのかも知れません。
 古代キリスト教で異端とされたグノーシス派の福音書では、マグダラのマリ アは十二使徒よりもイエスに近く、その奥義を授かった女性とされています。
 エジプトで見つかった原始キリスト教の様子を伝えるナグ・ハマディ文書の 一つ、外典「ピリポ(フィリポ)福音書」では、イエスはマグダラのマリアと度々 キスを交わしていたと記されています。さらに外典「マリアの福音書」では、 「マグダレネー(マグダラのマリア)が彼(イエス)の伴侶と呼ばれていた」と書 かれ、イエスの後継者がマグダラのマリアかのような記載があります。仏教の 六大煩悩の「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」に酷似した、「欲望」「無知」「愚かさ」 「妬み」「肉欲」「怒り」「無明」の、「魂の敵」を克服することこそが必要であると イエスから教えを受けた、とマリアはイエスの死後、ペテロをはじめとする弟 子達に説くのです。
 青年期には生誕地ベツレヘムより北部のシリア地方で、一家の生業である 大工として働いていた、と推測されているイエスのこと。ひょっとしたら500年 も前に生まれた仏教の影響を、イエスが受けていたのかも知れません。

 イエスの死後、マグダラのマリアはカトリックの教えによると、聖母マリアとと もに小アジアのエフェソスに移り住み、そこで亡くなったとされています。
 しかし13世紀にドミニコ会修道士ヤコブス・デ・ウォラギネが著わした「黄金 伝説」(前田敬作・山口裕訳「黄金伝説」「黄金伝説2」人文書院)によれば、 南フランスへひそかに渡り、マルセイユ郊外のサント(セント)・ボームの洞窟 で匿われ、娘を出産。ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」に出てくる秘密 結社シオン修道会によると、その娘の名前はサラと言い、イエスとマグダラの マリアに始まる「イエス・キリストの家系図」を残しているとか。もし事実だとす ると、キリスト教、中でもローマ・カトリック教会を震撼させることになるでしょう。

 そしてイスカリオテのユダ。
 一般的には師を裏切り、銀貨30枚で師を売る、非道極まりない、悪魔に 魂を売った人物とされています。しかし私は、どうも解せないのです。
 ユダはイエスの教団の中で金庫番を任されているほどの人物です。もっと も、ユダは盗人で、金入れを預かりながら、中身を誤魔化していた、と「ヨハ ネによる福音書」等では悪く書かれていたりするのですが、ユダは貧しい 人々にこっそり教団の金品を分け与え、病人には薬を飲ませていたようです から、単に自分の懐に入れていたとか、ユダ自身の保身目的に有力者を買 収するためにお金を使っていたわけではありません。熱心党(ゼロテ党)でシ モンとともに重要なポストを与えられていたにもかかわらず、それを投げ捨て てイエスの許に馳せ参じたユダです。通説ではイエスが地上世界の王を望 まず、失望したからだ、と言われていますが、それだけでしょうか。イエスの死 を旧約聖書で預言したのは神です。いや、正確に言うと、イエスが神の預言 を成就すべく、自ら十字架にかかろうとしていたのです。

 ユダヤの三大祭の一つ、出エジプト時における先祖の苦難を民族の記憶 にとどめるための祭、「過ぎこしの祭」(ペサハ)をエルサレムで祝うため、ペ テロとヨハネに適当な家を捜させ、晩餐の用意をさせます。これが有名な最 後の晩餐です。
 その席でイエスは自分を裏切るのがユダであることを告げます。弟子達は、 「少なくとも私は先生を裏切るようなことは、一切致しません」
 と言います。しかしイエスはペテロに、
「鶏が二度鳴く前に、三度私を知らない、とお前は言うであろう」
 と、静かに告げます。
 そしてイエスは、死を前にして苦悩している自らの心を鎮めるべく、祈るた めに山へと向かいます。
 山から戻って来てみると、弟子達は「眠らないように」という師の 忠告も忘れて、山裾のゲッセマネの園で眠っています。

 そんな弟子達に較べて、これは非常に危険な考えかも知れませんが、イ エスの真意を知っていて、あえてイエスを十字架に掛け、預言を成就させる べく、自ら死をも覚悟して師を売る役を引き受けたのが、イスカリオテのユダ ではなかったか、と。イエスが光とすれば、ユダは影。ユダはイエスがメシアと なるために、教団の暗闇の部分を一手に引き受け、全てを胸の内に秘めた まま、自ら命を絶ったのではないか、と思うのです。
 ユダに関する記載は、聖書には多くはありません。師を裏切って命まで奪 う道案内をした極悪非道人ですから、書きたくもないのでしょうが、それにし ても福音書のユダに関する記述は、あっさりし過ぎるように思えます。もっと 感情的に赤裸々に、口を揃えてユダのことを悪し様に書いても良さそうな気 がするのですが......。実は悪く書きたくても書けなかった理由が、他にある のではないでしょうか。
 歴史書は戦争に勝った者や後世に生き残った者達が、自らを正当化する ように書かれることがあります。福音書にしても、異端とされたものの中に、全 てが信じるに足る内容とは言えないにしても、真実が隠されている様に思え てなりません。

初出 2006.3
Last update Jan.4.2007

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