■ 道の話 ■


 江戸時代、北九州市小倉を流れる紫川下流に架かる常盤橋は、北部九州五街道(長崎街道、中 津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還)の起点でした。中でも長崎まで2 5宿、57里、228kmの長崎街道は、オランダの文化を江戸に伝える道とし て栄え、シーボルトや伊能忠敬も歩いたとか。その常磐橋は平成7年に江戸 時代と同じ「木の橋」に生まれ変わり、新幹線の高架と不思議な対比を成し ています。

 あまりにも有名な長崎街道に隠れて目立たず、意外に知られていないのが 秋月街道。福岡藩の南端にすっぽり包まれるように存在した秋月藩を突っ 切って小郡へ至る道なのですが、実は大変歴史のある道でもあります。中で も香春の地は、万葉の昔から平城京と太宰府を結ぶ官道筋にあたり、「豊前 国風土記逸文(鹿春郷)」によると、「豊前の国の風土記に曰く、田河の郡。 鹿春の郷、郡の東北のかたにあり。此の郷の中に河(金辺川)あり。(中略) 昔者(むかし)、新羅の国の神、自ら度(わた)り到来(きた)りて、此の河原に住みき。 便即(すなは)ち、名づけて鹿春の神と曰ふ」とあり、香春神社には辛国息長大姫大目命 (からくにおきながおおめのみこと)、忍骨命(おしほねのみこと)、 豊比当ス(とよひめのみこと)が祀られています。

この祭神の中に豊比当ス(とよひめのみこと)の名があるのが実に 意味深長で、この地に住み着いた渡来系の中心的な人々はその後、辛島 姓を名乗り、豊の国を代表する神社、宇佐神宮に深く関わっていくことにな るのです。

 香春岳は麓に採銅所があることからもおわかりの様に、その昔、銅の産地 として有名でした。宇佐神宮の放生会では、香春岳で産した銅を用いて三 の岳麓の清祀殿で神鏡を鋳造し、中津の薦神社で採取した薦で枕を作って ご神体とし、宇佐・和間浜まで神幸していました。これは宇佐神宮が支配下 に置く、当時の「豊の国」の勢力図でもあります。また、宇佐神宮で重要な神 事を行うとき、行橋の行事にある須佐神社にお伺いを立てたそうで、北は行 橋、西は現在の田川までがその範囲であろうと考えられています。

 香春岳と言えばもう一つ書き記しておかなければならないことがあります。 天台宗を興したあの最澄が804年の入唐に先立って、豊前に立ち寄り香春 岳に登っているのです。唐留学を終えて帰国した際も再訪し、香春社に神 宮寺・法華院(法華経を通じての弥勒信仰という意。神宮院)を建てていま す。最澄ほどの人物がこの香春岳に二度も登り、寺院建立までするとは、よ ほど香春の地というのは皆から崇められた聖地だったと思われます。

 さて、その香春の地から街道を南へ下っていくと猪膝(いのひざ)宿です。現在の田川 市南部、猪位金(いいかね)2区なのですが、その昔はこれより東寄りの現在の県道52 号線、添田を通り戸立峠を経て油木ダムの上流、宮元の集落から英彦山に 至るルートが賑わっていました。

 継体天皇25年(531年)に中国北魂の仏教僧の善正法師が日本に渡り、 修行の場としての日子山(後の英彦山)を開いたと言いますが、実はそれ以 前より英彦山へ通じる道は開けていたと言われています。

 たとえば中津から現在の国道212号線山国川沿いに耶馬渓を経て上って 行くルート、行橋からは今川沿いに油木ダムを越えて宮元から上るルート、 豊津からは国道496号線祓川沿いに伊良原を経由して野峠を越えていくル ート、椎田からは城井川沿いに鉾立峠と帆柱を経由して国道496号線と合 流するルートなどです。

 油木ダムの近く、標高550〜600mの津野地区の扇状台地には、今からお よそ6500年前、縄文時代のズイベガ原遺跡があり、その下流の今川沿いに は古墳が点々と存在し、古くから人の行き来があったことが伺えます。そして それらの古墳の多くに、宇佐と同じ八幡神社が建てられているのが興味を惹 きます。

 一方、芦屋や八幡方面からは、遠賀川の支流である英彦山川沿いに香 春岳の麓を経由してそのままJR日田彦山線に沿って上ってくるルートと、先 に記した香春から添田、油木ダムの上流宮元を経るコースがあり、博多方面 からは太宰府を経由して現在の小石原村を経て上って行くルートなどがあり ます。これら英彦山へ通じる古道は川沿いに発達し、物資の運搬にも一役 買っていたのではないかと思います。

 また、「熊野権現御垂迹縁起」によると、熊野権現は唐の天台山から飛来 し、まず英彦山に天下り、そこから伊予・石鎚山、淡路の遊鶴羽岳、紀伊・切 部山、そして熊野新宮の神蔵山を経て、ついに本宮に顕現したと書かれて おり、本邦における山岳宗教・修験道は英彦山に始まったと言う説があるくら い、英彦山は重要な地です。

 それにしても6世紀よりも前から山深いにもかかわらず開けていて人々の 信仰を集め、香春からまっすぐ最短コースでやって来ることが出来て、物資 の運搬も油木ダムの上流、宮元までなら比較的容易。そこから3〜4時間で 山頂まで登ることが可能で、周囲に古墳があって豊の国の秦一族ゆかりの 八幡神社が祀られ、ランドマークとして北部九州各地から比較的容易に臨 むことが出来る英彦山。

 そもそも修験道は「宇宙の森羅万象にして、一木一草に至るまで、すべか らく此を本尊となす」とあり、山岳信仰をベースに、神祇信仰、仏教、道教、 陰陽道が習合して形成された宗教と言われています。

 こう書いてくると、どうも卑弥呼の姿がチラついていけません。私には日本 の歴史から抹殺された卑弥呼の影が見え隠れするように思えてなりません。
 景初(けいしょ)3年(西暦239年)に親魏倭王の金印を授かっている卑弥呼が英彦山で 祭祀を行っていた、という説もあながち荒唐無稽な説とは言えないのかも知 れません。

初出 2004.12
Last update Jan.8.2007

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