■ 豊の国と耶馬台国 ■


 宇佐神宮へ初詣に行った帰り、ふと海が見たくなって、国道10号線から大分県との県境を流れる 山国川沿いに河口へと車を走らせました。途中になだらかな丘陵があり、見晴らしが良さそうなので 立ち寄ってみて驚きました。
 新吉富村の牛頭天王(ごずてんのう)公園というその地は、眼前に山国川を挟んで、 「豊の国(とよのくに)」のほぼ中央に位置する中津平野が広がり、牛頭天王と 名を変えた素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社が隣接した、二千年ほど前の弥生後期の 遺跡だったのです。
 248年に卑弥呼が亡くなった後、「更に男王を立つるも国中服せず」、弱冠13歳で台与(とよ) (「臺與(とよ)」、「壱与(いよ)」とも表記)が耶馬台国の女王を継ぐことになります。 台与はその名から「豊の国」と関係があるのではないかと言われ、「豊の国」随一の神社、 宇佐神宮の社の建つ亀山(かめやま)(元来は小椋山(おぐらやま)あるいは小倉山(おぐらやま))が 卑弥呼の墓だ、という説もあるほど。
 その宇佐神宮の元宮の一つが、かつて中津大貞(おおさだ)に十万坪以上もの敷地を有していた、 薦(こも)神社です。
 継体天皇21年(527年)、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)が蜂起、反乱を起こすものの失敗。 敗走中、中津平野の奥地、山国川沿いの「豊国上膳(かみつけのこおり)の峻しき山」で没したと言われています。

この乱の後、豊の国の中心的氏族、渡来系の秦(はた)の姓を名乗る人々が姿を消し、薦(こも)神社の足跡が 養老三年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱まで、あたかも存在そのものが無かったかの様に消失して しまっているのです。
 同じ頃、香春岳(かわらだけ)を経て「宇佐郡辛国宇豆高島(うさのこおりからくにうずたかしま)」、 現在の宇佐郡稲積山(いなづみやま)の麓、辛嶋(からしま)郷に「天降(あまふ)」ったとされる、 当初は素盞嗚(すさのお)の尊を奉じていた辛嶋(からしま)氏関連の社が、稲積六(いなずみろく)神社、 乙(おとめ)神社、さらに酒井泉神社、郡瀬(ごうぜ)神社(=瀬社(せしゃ))と、建てられて行きます。

 その後も崇峻(すしゅん)天皇(588〜592年)の御代に鷹居(たかい)社が、天智天皇(西暦662〜671年)の 御代に小山田(おやまだ)社が建てられ、「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」(=承和縁起)によると、 辛嶋勝乙目(からしますぐりにおとめ)が「それまで荒(すさ)びていた鷹居(たかい)社」に入って 元明天皇和銅元年(708年)社殿を建て(直し)たとあり、同5年 (712年)には官幣社に昇格、勝乙目が 祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄えます。

 そして720年の隼人の反乱では、薦(こも)神社の三角(みすみ)(御澄(みすみ))池に自生する真薦(まこも) を刈って作った枕形の御験(みしるし)、薦枕(こもまくら)をご神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、 乱を鎮めます。この薦刈神事は現在6年ごとに行われる宇佐神宮行幸会(ぎょうこうえ)の中で 辛嶋一族が当時より行い伝えており、辛嶋一族は古来より薦(こも)神社の神事と 深い関わりがあったと思われます。

  さて、薦神社にようやく社殿が出来たのは、承和(じょうわ)年間(834〜848年)。宇佐はこれより 遡ること百年以上、神亀2年(725年)に現在の宇佐亀山の地に移って社殿(一之殿)が、天平元年(729年)に 二之殿、弘仁14年(823年)に三之殿が建立され、現在の形式の本殿が完成します。
 宇佐亀山は三つの巨石を比売(ひめ)大神の顕現として祀る御許(おもと)山山頂の奥宮・大元(おおもと) (御許(おもと))神社の麓に位置し、先住の宇佐氏の磐座(いわくら)信仰に加え、御許(おもと)山が 宇佐神宮菱形池の水源であることが指摘されています。薦(こも)神社は三角池そのものが内宮であり、 共に宗像三比売(ひめ)大神、沖津宮(沖ノ島)の田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮(大島) の湍津姫神(たぎつひめのかみ)、辺津宮(へつみや)(玄海町田島)の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) を祀っています。

 ところがこの三比売(ひめ)大神は日本書紀巻第一神代上第六段一書第三の条によると、 「則ち日神の生れまする三の女神を以ては、葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋に降り居さしむ。
今、海の北の道の中に在す」とあり、最初は宇佐の地に降り立ったことを示しています。私にはこの 「(豊葦原中國(とよあしはらなかつくに)」が、単に葦がたくさん生えている高天原と黄泉の国の 中間にある人間が住む国という意味ではなく、豊の国や中津と、そして宇佐嶋が薦神社と関係が ある様に思えてなりません。
 と言うのも、かつて薦神社の三角(みすみ)池では、穢れ無き乙女が薦で清畳を織り、薦を束ねて枕とし、 池の小島の「薦休(こもやすめ)」と呼ばれる聖域にこれを敷いて神と衾を共にすることにより、 シャーマンとなって神のお告げを託宣したのではないか、と考えられているからです。
 また、薦神社の所在地、大貞(おおさだ)の「貞」の字には占いの意味があると言われ、道教との関連性も 指摘されており、当時、薦神社が果たした役割を伺い知ることが出来る様に思います。

 ところで、卑弥呼の墓に関する魏志倭人伝の記述に「大作冢(ちょう)、徑百餘歩、(犬旬)葬者奴婢百餘人」 という下りがあります。冢は墳墓と違って土台部分から構築するのではなく、自然にある山や丘陵の頂上付近に 手を加えたものなのですが、牛頭天王公園頂上付近の盛り上がりの部分はなんと約120歩。周囲にはたくさんの 埋葬者の跡があります。宇佐亀山まで社が転々としたことを考えると、卑弥呼は死後450年余を経て宇佐亀山に 埋葬されたと考えるより、宇佐神宮の元宮である薦神社、あるいはその周辺に埋葬されたと考えた方が可能性は 高い様に思えます。そう言う意味でも、牛頭天王(ごずてんのう)公園遺跡は非常に興味をそそられる遺跡です。
 それにしても卑弥呼の跡を継いだ台与は13歳。それまで争っていた国々を黙らせ、従わせてしまったという ことは、卑弥呼にも勝るとも劣らぬ巫女としての霊力の持ち主であるとともに、絶世の美少女だったに違いない と私は睨んでいるのですが、いかがなものでしょうか。
初出 2004.8



福沢諭吉の故郷、福岡県中津市は大貞にある、宇佐神社の祖宮と言われている、薦神社です。
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Last update Jan.4.2007