■ 音とイメージ ■


これは「ラジオ技術1993年5月号」の「私のリスニング・ルーム」
の元原稿となった文章です
私の出身大学のオーディオ愛好会のために書いたものです。
「ラジオ技術」の原稿は、残念ながら著作権のため載せるこ とが出来ません。悪しからずご了承下さい。
No. :1993-006
題  :音とイメージ
枚 数:17枚
依頼日:1993年2月3日
脱 稿:1993年2月12日

  よく勘違いされていることだが、いくら高価なオーディオ機器 を集めても良い音では鳴らない。良い音で鳴るか鳴らないかは、 結局の所、組み合わせで決まる。
 だからユーザーがハッキリとした音のイメージ、方向性を持た ずにいじくっていてはいつまで経っても良い音では鳴りはしない。
 わが家のオーディオシステムに例をとろう。
 先日シェルターというメーカーのプリアンプを聴く機会を得た。
 丹沢電機を辞めて独立した小澤ラボの小澤さんと共に、シェルターの オーナーである小澤氏がプリアンプ持参で直接わが家にやって来てくれたのだ。
 それまでのわが家のシステムはスピーカーはタンノイのスターリング、 CDプレーヤーはスチューダーのA730、メインアンプは先頃購入し たばかりのウエスギの新製品UTY8で、その前のメインアンプは ウエスギのU・BROS11であった。プリアンプはウエスギのU-BROS1。
低域と高域のバランスの関係からCDプレーヤーとプリアンプの間に ウエスギのマッチングトランスを使用し、CDプレーヤーとマッチングトランス の間はTRIアソシエイツのピンケーブルを用い、トランスからプリアンプまでは SONYのLC・OFCCLAS1を使っていた。プリ・メイン間もやはりSONYの LC・OFC CLAS1で、スピーカーケーブルは透明感と定位の良さが 素晴らしいTRIアソシエイツの製品である。湿度の高い夏場はさすがにダレるが、 冬場は実にきめ細かく美しい音色を奏でてくれた。
これがメインアンプを真空管がKT88のUTY8に換えたら俄然、 生き生きとした立体感あふれる音に変わった。
 そしてシェルター登場である。
 シェルターの小澤氏の薦めに従ってCDはトランスをはさまず ダイレクトにプリアンプにつなぐことにした。
 試聴用のアンプでは素直に伸びた高域にエネルギー感があり切れ 込みが素晴らしく、分解能も抜群で定位の良い音を奏でた。 SONYのピンケーブルをCD・プリ間に使用すると高域のエネルギー感が むしろ耳障りで、グラドのピンケーブルに換えたら低域のバランスといい、 高域の品の良い粒立ちといい、抜群であった。
 注文して製品が十二月十七日木曜日に届いた。
 今となっては笑い話だが、その夜鳴らしてみて品のない低域と全く 透明感のない高域に呆然となった。小澤ラボの小澤さんに電話で文句を 言ったのはこの翌朝である。
 しかしエージングを重ねる内に二日目の夜から高域が輝きだし、 むしろ低域の量感が不足しているくらいに感じられるようになってきた。 これはちょうど試聴用のアンプで聴くことのできた音質だった。
 さっそくグラドのピンケーブルにしてみる。
 まぁ、大体予想した通りの音になった。
 オーディオ愛好会会長の山川を呼んで狂喜していたのはこの頃である。
 だがエージングを続ける内に四〜五日目くらいから高域のエネ  ルギー感が落ち着き、透明感が増してきた。
 こうなるとグラドのケーブルでは低域がだぶつき、高域の粒立ちが欲しくなる。
 そこで再びピンケーブル接続大会を催し、マッキントッシュ、トーレンス、TRI、 SONYのケーブルを、まずCDプレーヤー・ラインアンプ間で試してみた。
 SONYの粒立ちの良さ、シャープさにわずかながら軍配が上がった。
  しかし音の傾向は不思議なくらい似通ってきており、シェルターのアンプの 個性の強さが支配的に思えた。
 ついでCD・ラインアンプ間はSONYで固定し、ライン・メインアンプ間を やはり同じように取っ換え引っ換え試してみた。
 結局SONYの鮮度の良さに軍配が上がり、これで落ち着くかに見えた。
  だがどうも少しこもりがちで高域が少々耳につき、今度はスピ  ーカーケーブルをいじることにした。といっても手持ちはバン・  デン・フルだけなので、それと付け換えただけである。
  高域のバランスは良くなったが、TRIで見られた透明感にはほど遠く、 ピンケーブルを少しいじってみたけれど、やはりTRIには敵わないと思って戻すことにした。 戻す際に、ふと、TRIのバイ・ワイヤリングにしてみたらどうなるだろうと思い立った。 たまたま試聴用というか非常用に同じ長さのTRIのスピーカーケーブルをもう一組持っていたので、 迷わず試すことにした。
 その結果は……。
 とにかく驚いた。背筋が寒くなるくらい驚き、目を見張った。
 高域の粒立ちはそのままで透明感が増し、定位の良さが俄然際立ってきた。
 そればかりではない。中域から高域まで自然に音がつながり、視界が一気に広がって、  微妙な音のニュアンスまで奏でるようになった。  何よりも静寂がこれほどまでに美しいと思ったことは未だかつてなかった。
 若干低域に甘さが残るのが珠に傷で、もう少しストレートでパンチ力のある 低域を奏でて欲しいが、これがタンノイの特性なのだろう。  いや、バイ・ワイヤリングにする前に較べたら低域のスピード感も明らかに増しているから、 あまりにも粒立ちの良い高域のせいで、低域が甘く聴こえているように感じているのかもしれない。
 いずれにしろ、みずみずしい声と粒立ちの良い高域と静寂の美しさは何物にも換え難いものがあった。
 その後、小澤ラボで試作したコーリアンという素材のスピーカー台を使ってみたり、UTY8の 真空管をゴールドライオンのKT88に換えてみたり、オザワラボの小澤さんの奨めに従って シェルターのラインアンプの真空管をRCAの6211に換えてみたりした。
 ゴールドライオンのKT88は中低域が力強くタイトで、わが家の音の欠点を補ってくれて 非常に好ましかったが、なぜだかコーリアンの台にすると音の透明度が失われ、6211の真空管に 挿し替えると高域の芯が細くなってしまってうるさく、透明感が薄れた。
  まったく試してみなくては判らないもので、結局千円足らずのコンクリートの台に壁紙を張った 安物スピーカー台とオリジナルのシェルターの真空管が最適であった。
 今の所この組み合わせで一応落ち着いている。シェルターのメインアンプの試作品が出来たそうだが、 試聴用のアンプがまわってきたら試してみようと思う。
 が、当分はこの組み合わせで満足できそうだ。もっともエージングが進んで行けば この先どうなるかは判らないが。
 新潟からわざわざ聴きに来てくれたクラシック音楽愛聴会OBの戸田さんも 今の音の素晴らしさに脱帽のようだった。
 スターリングにハーマンカードンのセパレートアンプを組み合わせていた 頃から私のオーディオとの格闘ぶりをつぶさに見て来て、いつも酷評しかしたことのない戸田さんが、 ついにうなって仕舞には黙ってしまったのである。
 実際この音は、今までの自分のオーディオ遍歴の常識を打ち破るレベルで  鳴ってくれている。一つ一つの製品をとってみれば、シェルターのラインアンプは別として、 他は実にオーソドックスというか、誰でも知っているような製品ばかりである。
 クラシック音楽ファンがタンノイのスターリングを使い、それを鳴らすメインアンプに ウエスギのKT88仕様の真空管アンプUTY8を使う。CDプレーヤーはオープンデッキ時代から 定評のあるスチューダーの製品で固める。
 これらは知る人ぞ知る、黄金の組み合わせである。
 これにシェルターのラインアンプを組み合わせてみただけと言えば簡単だが、 実際私が試みたことと言うのは、試聴用のプリアンプが聴かせてくれた音の片鱗を思い描き、 シェルターというメーカーを信じて隠し味としての調味料的存在であるケーブル類を 取っ換え引っ換えして、自分の持つ音のイメージに一歩一歩近付けて行ったのである。
こうしたオーディオに対する取り組み方というのは、タンノイの初代スターリングとの出逢い 以来変わっていない。
 秋葉原のとあるお店の前を通り過ぎた時にたまたま流れていたバイロイトのワーグナーの音楽。 それがタンホイザーだったか何であったかは忘れたが、声のリアルさと、テノールの歌手がクルリと 振り向いた様まで手にとるようにわかった時の衝撃は今でも忘れない。
爾来たった二組のピンケーブルを求めに秋葉原まで往復したりこの時は出費を少しでも 抑えるために途中まで原付で行った)、スターリングの潜在能力を信じて少しずつ少しずつ自分の目標と する音に近付けて行った。
 粒立ちの良い高域と歯切れが良くパンチ力とスピード感ある低域。 しかも定位が良く透明感があり、美しい静寂を聴かせてくれる。そしてみずみずしい声と伸びのある 管楽器群はフル・オーケストラでも音がつぶれたり濁ったりすることなく朗々と鳴り、弦  はつややかでアタックは切れ込み鋭いながら爽やかで風が吹き抜 けるようで金属的な響きにならず、 打楽器は水晶の輝きを思わせる硬質でキラキラとしてかつ澄みきった音を聴かせる……。

 伏し目がちに衣擦れの音をさせて母親と共に現れたロシア皇帝の娘、 ナターシャ。まだ少女の面影を残したその細面をゆっくり上げ、澄み切った瞳を大きく見開く。 レーニンの命を受けてシベリアの地で皇帝一族の生命を絶たんとする兵士達を前に、彼女は微笑んだ と言う。
 その気品と凛とした出で立ちに、兵士達は体に触れることはおろか、声を かけることすら出来なかったと言う。そして自ら「ご一緒いたします」と声をかけ、 死地へ赴いた……。
目を閉じて耳を傾けると、眼前にナターシャの微笑みが浮かんで来る。
 まさに大輪花開こうとする直前に散ったうら若き乙女、ナターシャの 時空(とき)を超えて語りかけてくる声が聴こえる、そんオーディオシステムを求めて ピンケーブルの一本に至るまで細心の注意を払い、試行錯誤を繰り返す。
 一月末にわが家の音を聴きにやって来た須玉町の郵便局長伊藤氏の 「一つ一つの音が磨き上げられた日本庭園のような音だ」と言う評は、言い得て妙。 けだし名言である。わが家の音を語るに、これほど的確な表現はない。
 伊藤氏のお宅のスピーカーはカンタベリー15である。もっと力強く鳴る。 第一、部屋の広さが違う。わが家の場合、六畳程の部屋でクラシック音楽を中心とした音楽の 小宇宙を創り上げようとしているのだ。
 広くてたかだか数十畳の限られた一つの部屋の中で、生そのままにフルオーケストラや室内楽、 コーラスからピアノまで、皆、最高の音で鳴らすのは土台無理な話である。しかしその無理を承知で 挑戦しているわけである。となれば「日本庭園」の形を取らざるを得まい。
 誤解の無いように言っておくが、これは現在流行(いまはやり)の「ダウンサイジング」とは まったく別物である。余分なところを「切り捨てる」ことによってサイズを縮小し、本来の姿を明確にして 行くダウンサイジングとは違い、そのエッセンスを「変容させる」ことによって、 元来持っていたイメージを超越し、普遍的な形を創るのである。
 しかも虫の良い話だが、私の場合「形」ばかりか時間(とき)を超え、現在(いま)ある空間を超え、 文字通り時空を超えた音を奏でて欲しいのである。
  レコードであれCDであれテープであれ、記録された媒体の持つ本来の姿 というのはかくあるべきであろうし、かくあるべきものだと信じている。逢ったことはおろか、 垣間見たことも写真で見たことすらないロシア皇帝の娘、ナターシャを彷彿とさせるオーディオシステム。 「今一つ高域の伸びが…」とか、「透明感が…」とか、「分解能はまあまあなのだが、定位が…」などという 言葉など、その音の前では意味を成さないオーディオシステム。
 目を閉じて耳を傾けると、自分の心の奥底に眠っている時空を超えた記憶が 蘇って来るようなオーディオシステム……。
 もっとも、こんな音を奏でてくれるオーディオシステムなど求めても、 実際のところありはしないのかも知れない。だが私の心の奥底でこの理想化された 音が鳴り続けてくれる限り、追い求めずにはいられない。
 今現在わが家で鳴っている音はこの理想の音に一歩、いや、二歩くらい近付いたと 言って良い。でも、到達したわけではない。
 理想化された音は私の心の中でますます磨きがかかった音を奏でる。
 手を伸ばせば届きそうなのに、なかなか掌中に出来ぬ音。だが上着の裾くらいは 掴むことが出来たと思う。しかしそれも束の間、ゆうるりと裾を翻して私の掌から 抜け出すと「いらっしゃい」と微笑みながら手を振る。
 彼女は確かにそこにいるのだ。吐息が耳元をくすぐるほどすぐ近くに。 長いその髪が私の頬を撫でてゆくほど近くに。今ここで諦めてしまったら 二度と手の届かぬ所に行ってしまうかも知れない。ならば求めずにはいられまい、 どんな犠牲を払っても。何にも代え難い彼女をこの胸に抱くためには。
 ん、何? んなことやってるから、いつまでも結婚も出来ずに独り身なんだって?
 ふん、余計なお世話じゃい。
 そんなに他人のことをとやかく言いたいなら、わが家の音を超 える音を聴かせてみろってんだ。

初出 1993.2.12
Last update Jan.19.2007

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